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第三章「生命の宴」

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-11-26 04:11:51

 二年が経過した。

 時間の経過を、私はどうやって知るのか? それは不思議だった。太陽も月も星も見えないこの深淵で、しかし私には確かに時の流れが感じられた。

 それは生命のリズムだった。

 私の死体に集まる生物たちの世代交代。卵が孵り、幼生が育ち、成体になり、そして死んでいく。その循環が、私にとっての時計だった。

 そして今、私の肉体は劇的な変化を遂げていた。

 肉はほとんど食べ尽くされた。鮫たちが大部分を持ち去り、残りは無数の小さな生物たちが綺麗に平らげた。今、露出しているのは白い骨だけだ。

 しかしこの骨こそが、真の宝だった。

「見事だろう?」

 船の魂が自慢げに言った。

「君の骨が放つ化学物質の豊かさを。硫化水素、メタン、アンモニア。生前なら毒物だ。しかし、ここでは生命の源だ」

 私は観察した。

 骨の表面に、奇妙な生物が繁殖し始めていた。

 最初に気づいたのは、赤い羽根のような構造物だった。それはゴカイの仲間で、骨の隙間に管を作り、そこから色鮮やかな触手を伸ばしている。触手は水流をとらえ、有機物の粒子を濾し取っている。

 その周りに、白い貝殻を持つ二枚貝が群生している。彼らは骨に直接付着し、殻を開いて餌を待っている。しかし彼らの餌は、普通の植物プランクトンではない。彼らの体内には、特殊なバクテリアが共生している。そのバクテリアが、骨から染み出す硫化水素を使って化学合成を行い、栄養を作り出しているのだ。

「化学合成生態系」

 船の魂が教えてくれた。

「深海の熱水噴出孔と同じ原理だ。光合成ではなく、化学反応で生命を支える。君の骨は、一つの小さな熱水噴出孔なのだ」

 私は驚嘆した。

 生前、私は光の世界の住人だった。太陽エネルギーで育った植物プランクトンを、オキアミが食べ、そのオキアミを私が食べる。全ては太陽から始まっていた。

 しかし、ここは違う。ここでは私自身がエネルギー源だった。私の骨に蓄えられた有機物、私の骨から染み出す化学物質。それが、この小さな生態系全体を動かしている。

「君は今、太陽だ」

 船の魂が繰り返した。

「この暗闇の中で、唯一の光源だ。比喩ではなく、文字通りに」

 確かに、私の骨の周りには微かな光があった。発光バクテリアを持つ生物たちが、青白い光を放っている。その光は弱々しいが、しかし確実にそこにあった。

 そして、その光に引き寄せられて、さらに多くの生物が集まってきた。

 透明な体を持つエビ。巨大な目を持つ魚。長い触手を持つイカ。彼らは私の骨の周りを泳ぎ回り、小さな獲物を探している。捕食者と被食者の関係が、ここにも成立していた。

 私の骨は、生態系のピラミッドの基盤だった。

「数えてみたことがあるか?」

 船の魂が尋ねた。

「君の骨に何種類の生物が住んでいるか」

 私は数え始めた。しかし、すぐに諦めた。多すぎる。

「最終的には、400種を超えるだろう」

 船の魂が教えてくれた。

「私が観察してきた他のクジラたちはそうだった。そうだ、君は初めてではない。300年の間に、私は12頭のクジラがここに沈むのを見た。全て、君と同じ道を辿った」

 12頭。

 私は胸が熱くなった。私は孤独ではない。私の前に、多くの先達がいた。

「彼らは今、どこに?」

「消えた。完全に骨まで分解され、海底の泥と一体化した。しかし彼らの魂は――」

 船の魂は言葉を切った。

「いや、魂という言葉は正確ではないな。彼らの意識は、ある時点で溶解した。海そのものになった。私もいずれそうなるだろう。そして君も」

「いつ?」

「わからない。それぞれ違う。ある者は50年で消えた。ある者は150年残った。それは、各々の執着の強さによる」

「執着?」

「生への執着。自己への執着。形を保とうとする意志。それが強ければ強いほど、意識は長く残る。しかし最終的には、全てが手放される」

 私はその言葉を噛みしめた。

 私はいつ消えるのだろう? そして、消えることを恐れるべきなのだろうか?

 その時、私の骨に何か奇妙なものが取り付いた。

 最初は小さな突起のように見えた。しかしそれは成長し、やがて花のような形になった。赤い花弁のような構造が開き、中心に口のような器官が見える。

「ホネクイハナムシだ」

 船の魂が興奮した声で言った。

「素晴らしい。ついに来たか」

「これは何だ?」

「最も重要な住人だ。彼らは骨そのものを食べる。いや、正確には、彼らの体内のバクテリアが骨を分解する。彼らがいなければ、君の骨は何千年も残り続けるだろう。しかし彼らがいることで、骨は分解され、栄養として海に還る」

 私は複雑な感情を抱いた。

 私の骨は、私の最後の砦だった。肉が食べ尽くされても、骨は残る。骨がある限り、私はまだ私だ。

 しかし、その骨さえも食べられようとしている。

「恐れることはない」

 船の魂が優しく言った。

「これは自然の摂理だ。全ては循環する。君の骨の中のカルシウムは、やがて海水に溶け、そして別の生物の骨になる。君の骨の中の有機物は、バクテリアに食べられ、そしてバクテリアは別の生物に食べられる。死は終わりではない。変換だ」

 私は理解しようとした。しかし、まだ完全には受け入れられなかった。

 その夜――いや、ここには夜も昼もない。しかしある時、私は妙な経験をした。

 私の意識が、突然拡大したのだ。

 それまで、私は自分の骨と、その周辺だけを認識していた。しかしその瞬間、私の認識は広がった。半径100メートル。いや、もっと遠く。

 私は感じた。私の骨に住む全ての生物の生命を。

 ホネクイハナムシの内部で働くバクテリアの代謝。二枚貝の鰓を通過する水流。ゴカイの心臓の鼓動。エビの複眼が捉える微かな光。

 全てが私の一部だった。いや、私が彼らの一部だった。

「そうだ」

 船の魂が囁いた。

「君は気づき始めた。境界は幻想だということを。君と彼らの間に、本当の区別はない。君は彼らの家だ。そして彼らは君の継続だ」

 私は混乱した。しかし同時に、深い平和を感じた。

 私は一頭のクジラではない。私は生態系だ。私は世界だ。

 そして、その認識と共に、新しい記憶が蘇った。

 それは私の記憶ではなかった。しかし確かに記憶だった。

 私は船だった。嵐の中を航海していた。マストが折れる音。乗組員の叫び声。冷たい水が流れ込む感覚。

 いや、それは船の魂の記憶だ。

「そうだ」

 船の魂が確認した。

「ここまで来れば、我々の記憶は共有される。君と私の境界も、やがて曖昧になる」

「では、私たちは一つになるのか?」

「いずれは。しかし、まだ時間がかかる。今はただ、この過程を楽しめ」

 楽しむ。

 不思議な言葉だった。私は死んでいる。私の肉体は食べられ、私の骨は分解されようとしている。

 しかし、確かに私は楽しんでいた。

 私の骨の上で繰り広げられる生命のドラマを観察することは、生前に大洋を泳いでいたことと同じくらい、いや、それ以上に満たされた経験だった。

 ある日、私の骨に卵が産みつけられた。

 深海魚の一種だった。彼女は慎重に私の肋骨の隙間に卵を配置し、そして去っていった。

 私は卵を見守った。

 21日後、卵が孵った。小さな、半透明の稚魚が泳ぎ出した。彼らは私の骨の周りに留まり、骨に付着した小さな甲殻類を食べて育った。

 やがて彼らは成長し、深海へと泳ぎ去った。

 私は母親になった気分だった。

 いや、母親以上だ。私は揺りかごだった。保育器だった。そして、彼らの最初の家だった。

「これが君の新しい役割だ」

 船の魂が告げた。

「生命を生み出すのではなく、生命を育む。君は大地となった。海底の大地。そこから無数の生命が芽生え、育ち、そして次の世代へと命を繋いでいく」

 私は深く、深く、その真実を受け止めた。

 死は終わりではない。

 それは、より大きな生命への参加だ。

 私は海になりつつある。

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